昭和52年07月12日 朝の御理解
天地書付
「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日 で頼めい。」
金光教の信心を単的にまたは表現された、または教えの一番代表的なみ教えだと思うのです。初めから天地書付を拝む対象と言う事ではなかった。けどもその内容が言うならば、余りにも素晴らしいので、わざわざ天地書付とは、初めから天地書付とは言わなかった。けどもこの御教えを教祖様はいろんなお上との事情で、暫く拝む事を差し止められた事があった。それで信心のいわゆる神前撤去ですね。
御神前を全部はらわれて、そしてその間にこれを頂かれまたそれを、信者にもそれを書いて渡された。金光教の信心は、この行き方でさえいけば拝みに来なくても頼みに来なくっても、おかげ頂かれると言う御意味じゃ無かったでしょうか。だから見易い所にこれを貼っておけと仰った。だから柱に貼る者もありゃ、釜戸に女の人は炊事場なんかにも貼った。見易い所に貼っておけと。
それで私は御本部からこの天地書付をお下がり頂いた時に、こんな風に昔風に御扉風になっている所は、御扉の前に掛けておられるという教会が多いのです。久留米に参っても福岡に参ってもあそこに拝む対象として掛けられとる。で私は矢張り拝む対象は金光大神のお取り次ぎを頂いて、天地金乃神様だから是は何処までも見易い所に掛けておけと言うのだから、真正面のここへここはお取り次ぎの間と言うのですけれども、お取り次ぎの間の、皆が御祈念する時必ず拝まして貰える所に掛けさして頂いたんです。
だから見易い所に貼っておけと言う事は、いつもこの心を忘れるなよと言う事なんです。心の中に生神金光大神様を唱えると同時に、又は一心に願う事はいくらも沢山あるけれども、その願う心の内容と言うものが、言わば和らいだ心でなければいけないぞ、賀び喜びの心がなからなければいけないぞと、その和らぎの心賀びの心を愈々追及した上に追及して、それを本当のものにしていく所にです、そういう心におかげがあると。今月今日一心に頼めと言う事は、今月今日ただ今を願っていけと言う事なんです。
ですからその今という心は、いや念ずるという心は今の心。二、三日前の御理解に頂きましたね。私共が「金光様・」とこう念ずる。その念ずると言う事は今の心、今のような状態の心では駄目なのだと。また今の心所詮合楽でいわれる心行が出来ておっての祈りであるかどうかと言う事、所詮心行に通じるわけです。昨夜私はいつもより早く、十時頃出て参りました。そしたら丁度高橋さんと秋永信徒会長が、事務所で話をしておられましたが、今日は何事だったかと言うたら、今日は奉迎委員会だったと記念祭の。
で今終わって帰ろうとしている所だと言って、それで御祈念を終って食堂へ参りましたら、また食堂でお茶を頂きよんなさいましたから、色々お話をしてしている間に、丁度ここの指出の共励会でしたから、あちらへ行った【】先生が帰ってきて、そして今日は珍しいお客さんが来て、東京から伊藤君が帰ってきとります。それで丁度行き掛けでしたから、一緒に指出の共励会に来てもろうて、今一緒に帰って来たと言うのです。
それでまぁ色々と話が弾んで弾んでと言うても、矢張り話す事は信心の事ばかりですから、たまたま先日のここの松影会の話しがあった。それで皆が合楽の金光様を拝もうごとないとじゃろうかと言う話が昨日出ましたが、これはあんまり合楽の場合はね、このそれこそ本当の花だけれど、その花があまり素晴らしいから、造り花じやなかろうかと言うような傾向があるんですね。
あまりにも。例えば日頃一時のその修行があってますね、夏期信行が。それに松影会は一時半からなんです。ですからまぁ一時頃から皆次々と見えますよ。ここのご信者も皆一時の御祈念の時には、一杯ここに集まっとられますから、沢山の人がここにそれこそ立錐の余地も無い様にここに集まって、御祈念を今か今かと待っておる。松影会の方たちも共励殿でそれを待っておられる。あるいは一時半を待っておられる。
所が同じ金光様のご信心を頂いておって、今から一時の夏期信行が始まると言うのだから、本当言うたら丁度御祈念を頂いて、その会が始まるのだから、ここに出て来て拝んでも良かろそうなものだけどと言う事で御座います。拝まないそしてならおかげを頂くためには、と言う信心の研修をして居る者として、どう考えても私共ではふに落ちない様な感じがするんだけれども。
とにかくまぁこれは私の推量ですけど、合楽は今日はここで久留米の松影会があるから、沢山お参りしてきてから皆にみせにゃ、合楽っちゃこげんおかげを頂いとると言う事を。だから、松影会のある事を言うて皆が今日特別にお参りして来て居る、と言う様な風に感じられるのではなかろうかと。演出した訳ではない何でもないのだけれども、矢張りそれを丁度目の当たりにお参にくる人達が、見たり聞いたり致しますからね、言うならば演出しておるかのように見える訳です。
勿論それも神様の大きな御演出でしょう。けども私どもが演出しておるかのようにお話しさせて頂いても、それはそんな筈がないとここで色々とおかげを頂いておる本当にまぁ凄まじいまでの働きを言うてもです。そんな事はないと思うて聞くから、それを本気になって聞こうとしない。だからそういう様な状態だから、もう秋永先生よそへ行ってからもですね、もう一生懸命合楽の信心を語ると言った様な事は、もうやめにゃいかんばい、と言う所です。もうだまぁっとくがよかよ。
合楽の者はもう本当にだまぁって、それでまぁ合楽のまぁ皆さんがおかげを頂かれた話をして下さいと言うた時に、初めてさして貰、と言った様な事ではなかろうか。合楽の信心とは、と聞かれた時に合楽ではこう、と話した方が良いのではなかろうか。それでは無うても、例えばいかにも演出したような嘘のような、実際また嘘のようなおかげですからね。だからそれを本当の事と、言うなら余りにも素晴らしい花だから。
はぁまるっきりこれは造り花のごとあると言う風な見方をされる向きがあって、折角の合楽の御比礼を、中に入って広げると神様が仰るその事が出来ないと言う事は残念だ。だからむしろもう説明したり、話したりしない方が良うないだろうか、と言う様な話をしとりましたら御心眼に頂くのが、『菊水』ですね。菊の花を半分にして水がこう流れておる、それを頂きますがその時はそう感じなかったんです。
そしたら今日御神前で頂きます事が、今テレビでねここの御神酒さんであります菊正宗を宣伝してますね。それが歌うように“きくまさぁむねえ”と言う様に長く歌の節で言います。その菊と言う事が聞こえないくらいに、そして『正宗』と言う神示を頂いて、はぁあ昨日から頂苦事、今日頂く事を思い合わせてみてです、成程この菊の花、菊水と言うのは半分の菊の花、水と言う事をおかげと頂くでしょう。合楽の信心はまめだ半分しかおかげを頂いてないのだ。
ここでは菊の花を合楽のシンボルの様に申します。勿論菊をもじると、喜び久しいとかきます。中村喜久代さんがある神願成就の為に御本部で頂かれた、キクヨと片仮名で書いてあったのをこれからは喜び久しい代と書けよとお知らせを頂かれた。それで以来は喜久代と漢字で書くようになった。けれどもこの喜という字がなくなる、この喜ぶという字がなくなると、久代くよになるよと。
ですから自分の心の中に平やら不足やらが出てきた時には、もうくよくよしとる時だから喜びを無くしておる時だと思うて、喜びを取り戻す精進をしなければならない、と言うようなご理解でした。昨日から頂く事本当に合楽のこの事実を見てこの事実を何と見るか。例えば先日御本部から見えた、先生がわざわざここに見にこられたと言うか、聞きに来られたか知らんが、なら私に色々と求められる。だから話すまでもなくビリグイで頂いている末永先生の事を。
これがもう十通位手紙が来とりますでしょうが二か月の間に。そしておかげを頂いている過程がこの手紙に書いてあるからお見せしたらどうかと言うて若先生に申しましたから持って来ました。応接間でそれでまあ読まれるかと思うたら、パラパラとこう捲られただけでした。もう私は本当に驚いたんです。一通の手紙でも読んだらもう御道の信者であるならばです。もう感動せずには置かない様な素晴らしいとが書いてあるのに。ただもう話しても同じだと思いましたけれども、そう言う様な見方しか出来ていない。
昨日たまたまそういう話をさせて頂いとる時に、佐田先生がまた入って来ましたからまた一緒に話し、佐田先生が銀座教会で修行しとる時に伊藤君を知っとったらしいです。そんな事から話が弾んで、ですからそのあちらで合楽教会では壱岐の女の先生、一度ここに壱岐の女の先生で、もうそれこそジゴのごとある事を書いてから送った先生かあったのです。末永先生からあそこに布教に出たときに、そこの信者が何人か参って来た訳ですね。そして郷の浦教会。
郷の浦教会と言うからもう腹立ちまぎれに書きなさったんだろうと思う、長々と手紙が来ました事がある。恐らく女の先生というからその先生だろうと思うけれど、もう合楽でしている事は、もうろくな事はしとらん。そして第一大黒様を拝ませるだけでも金光様の信心じゃないまぁ悪口雑言だったと言う事なんです。だから佐田先生もその時はそうだと思っとったわけです。所がなら合楽で大黒様の由来と言えばなんだと聞きますとです、もうほんとうに、もう何と言うでしょうか。
金光様の信心を、本当に教祖生神金光神様を拝ませてもらうと言う人ならば、小倉の桂先生が九州に下られる時にこの福神を祭りなば家に宝の尽きる事無しと。勿論皆さん御覧になった事があるかも知れませんけど、大祭の時なんかにいろんな展示品があります。その時に教祖様のお姿を絵に書いたのが軸になっとります。あるご信者さんがお供えして居る。そりゃあもう大黒様そっくりです。肥えておられて背が低うてね。そしてふくよかなそのお顔を書いてあるのがもう本当に大黒様を軸にした様な感じです。
まあそう言う様な中から福神、ここでは大黒様ではなくて、勿論教祖金光大神様とも頂くだろうし、または親先生とも頂いて、そしてさあ熱ければ冷たい氷水です。氷水でもと。またはお茶を差し上げたい。そういう、例えば信心させて頂く者の道念の心と言うかね。もうそうせずにはおられない様な心がそこに現れてくる。その形なのですから大黒様を拝みよる訳でもなから無ければ大黒教でもない訳なのです。
けれどもならそれだけでも合楽が間違っていると言うのはそういう悪言雑言と言う事が、言わばそれこそ全国に散らばっておるから、来るまではそんな考え方で皆さんが見えるのかも分からん。だから本当に求めて合楽の信心はと聞かれたらだけど、もう悪口を言うておる者にそんなこっちゃない、ああだと言うて説明するよりも秋永先生あたりは、色々中央にも出て行くしお話もやっぱりさせられるわけですから、もうあんまり一生懸命合楽の、言うなら宣伝の様な事はせんが良い。
宣伝じゃなくてもいかにも宣伝しとるかの様に、演出しとるかの様に見られる向きがある。ああなかなか合楽の先生は商売人じゃから掛け引きが旨い、と言うような評判も聞いた。だから今日は久留米の者が皆集まって来るからもう出来るだけ御広前に一杯信者を集めといて、それをいかにも見せようとする様な事かの様に、なら邪推をしたりまたは疑うたりしとる人があるかも知れん。だから合楽の神様は拝もう事ないごとなっとるかも分からない、と言う話からでしたけれども。
そこで私は思わして頂いたんですけれども、今お話をした様な事で、合楽が悪口を言われておると言う事は実は尊い有り難い神様の働きなのだけれども、そんならなぜかと言うとその悪口を自分の心の中に頂かなければならないと言うこと。成程泥棒じゃと言われても乞食じゃと言われても、俺がいつ泥棒をしたのか乞食したかと言うのでは無くてです。自らの心の中にああ言われればあると言うものをです、厳密に自分の心に頂いて行く。いかにも合楽の信心は菊の花のように思うておるけれども。
実を言うたらまだ半分なのだと言う事、半分の菊の花しか頂いておらんにも関わらず、なら菊水の水のおかげは頂いておる。おかげは頂いておると言う事になるのです。それでこれがまともな菊と言う事になった時に初めて合楽でなければならん、金光教の信心、いわゆる芯に合楽の信心を持ってこなければならないと言われる時期も必ずや、いわばこちらの信心が進んだとき、だからもっともっと実はおかげを頂いて初めて判ってくるのじゃないかと言う風に思うのです。
今日は頂いたらこの天地書付ですから、今日は天地書付の解釈ではなくて、この和賀心と言う和賀心、これには非常に合楽の方達は素晴らしい言うなら頂き方をしてま。例えば全てを寛大の寛の字で頂こうと、“ウ冠”に“サ冠”を書いて“見る”と書く。“ウ冠”と言うのは天地という字、宇宙の事である。“サ冠”と言うのは自然の意味である。いわゆる天地の親神様が、私に求め給う修行なのだから、その事がそのもの全てが、だからそれを自然の働き、宇宙天地の働きと頂いて。
そういう見方ができる時に心は自づと和らいでくる和賀心。あぁ腹を立てる事じゃない、こういう寛の字で頂かねばならないと言う様な、言うなら成り行きを大事にすると言う頂き方は、もう全て和らぎの心で無からなければ頂けんのです。そこでなら私は今思うのですが、菊の花の半分しか頂けてないと言うのはまあまあ和の心は頂けたとしてです賀の心。賀びの心が半分足りないのだなと言う事で御座います。そう言われてみると本当に賀びが足りないと思うのです。
愈々これから言うなら、和賀心の賀である所の喜びの心。昨日研修の時に先生方に申しました事でしたけれども、合楽で修行さして貰うとる皆さんの場合はこうしてお参りさして頂くと、目の当たりに神様のおかげ、言うならば天地金乃神様の凄まじいまでのおかげを見ることができる。昨日も癌でおかげ頂いたという人のお礼のお届けがあった。又は赤ちゃんがヘアーピンを飲み込んだ。それで下からお取り払い頂いたが良いよと言うとったけれども心配でたまらん。
それで医者に連れていった所が、それも大きなヘアーピンが体内に見えた。それで医者も大変たまがってから今日中にどげんしたなら、と医者も迷っておられた。そしてなら今日一日してまあ出らないごとあるならまた病院に連れて来て下さいと言う事であった。そしたら病院にまあ一遍行こうかと言うとる所へ、子供がお便所に行くと言うからお便所に連れて行かれたら、そのお便所と一緒にその長いヘアーピンが出て来た。
どうしてこれがお腹の中を通って出ただろうかと言う様なのが出てきたと言う、そのお届けがありました。丁度その直後でしたから、例えばそういう目の当たりに見る神様の凄まじい働きと言うものを見ておるから、神様のおかげだけは、働きだけは皆さんが分かっておるようなもの。だから合楽ではね。いかに神様に信じられる稽古だけに専念しとけば良いかと、もう神様を信じる稽古は目の当たりに見とるけん、神様はござるのござらんのと言う人は居らんだろう。これは皆さんだってそうでしょう。
そりゃもう本当にね凄まじいです。これはもう昨日の金銭だけの事じゃありません。本当に素晴らしい御繰り合わせのお届けがあった。もうとてもとても不思議なおかげです。だからそれを見聞きしておるならば、あぁ成程神様はござる、神様の働きを信じまいと思うても信ぜずには居られないものを、合楽で皆さんは頂いとるのですから、神様を信じる事は出来とるのですから、神様から信じられると言う稽古をせなければいけませんよ。だからその事だけに専念したら良いと私は言うのです。
こげなこと言うたら、こげな事しよったら、神様が返って信用される所か、神様から言うなら嫌われる。だから神様に信じられる事だけを一生懸命にして行く。例えばなら末永先生が十年間神様に信じられる行き方だけを一生懸命してきた。神様を信じたからこそ、当時の椛目に修行に来た。その神様を信じ又は神様から信じられると言うのが一つになった時に、いわば凄まじいまでの働きが起こるのだから、信じられる行き方を身に付ける以外無いよと言う訳です。
そこで信じられる言うなら生き方がです、楽しゅう嬉しゅう出来ることのために、天地書付が芯になってこなければいけんのです。本気で和の心和らいだ心、そこで一切起きてくる全てが天地の働きである。しかも自分の前に起きてくる難儀であるならば、それは天地の神様があなたに求め給う、いやあなたに力を下さろうとする働きであると頂いたら、神の威力を受けられる。そこに和らぎの心が愈々育って来る。
そこでなら賀の心喜びの心、その賀びの心を頂かして頂くための信心、それはもう愈々改まって、自分を愈々清めて行くと言う以外には有りません。丁度御祈念中にけたたましくベルが鳴っておった。どこかお届けがあっておるなと思うて居ったが、先程福岡の清松貴只教さんと言う人が急病で困っておるからお願いして下さい、そしてその間も心配だからどうぞお願いをしてください、今からすぐお願い参拝致しますから、と言う電話があった。私は今最後の締めくくりをどう頂こうかと思うたら。
今ここで控えたばかりの清松只教と言う事を頂いた。そこで賀の心と言うのは、松と言うのは合楽の信心と頂いて良いでしょう。清いと言うのは勿論清める事、只教と言う事は、只教と言う事は教えと言う事でしょう、教えの道と言う事でしょう。所詮ただ教えを行ずる以外は無いんだと言う事なんです。しかもただ行ずるだけで無くて清まって改まっていわば、改まって研いて行きです。ただ教えを行ずる以外に無い。そこから言うなら限り無い喜びが沸いてくる。
その喜びがです、私は合楽の場合欠けているのじゃないだろうか。和の心と賀の心が本当に出来た時に、言うなら完璧な菊の花になるのじゃないだろうか。私は今日御神意に頂いた、大体はあれは菊正宗の宣伝の言葉ですけれども、なに正宗と菊正宗と言うきくは、もう聞こえるか聞こえない所を頂いて、正宗と言う所だけがはっきりと聞こえるお知らせを頂いて、合楽の場合は菊正宗に間違いないのだけれども、その菊正宗の菊がまあだ皆に聞こえる程にないと言う事なんです。
そして夕べ頂く事と今朝頂くことと合わせてみてです。まあだ合楽の場合は菊が半分だ、欠けておるならば賀びの心が欠けておるんだ、和らぎの心はあっても賀びの心のほうはまだ半分しかないんだ、いくら菊正宗と宣伝しとってもです。ただ正宗正宗だけ聞こえただけでは。正宗と言う事はお酒の代名詞のように言われとりますけど、どこの酒やら分からん。レッテルが付いていない。もう菊正宗と言えば昔からもうこれは菊正宗の追 を許さないと言う程の品質の上に於いても一番最高のお酒なんです。
だから合楽は菊正宗、いつも皆さんが頂いとられるお神酒は、菊正宗ばっかりです。しかも菊正宗の、あそこで出来る超特級のお神酒ばかりです。だから本当に超特級の菊正宗の信心が名実共に出来た時です、初めて合楽の信心が世に問われる時ではなかろうかと私は思います。また問われなければ、また頂いて貰わなければ、いや今の教団の言うなら信心の中に入っていかなければ、もう私は絶対教団の発展は有り得ないと確信するです。だからどうでも皆さんがです。
まず和賀心を自分の心の中に頂いて、皆さんがおかげを実証して下さらなければ言うて居るだけでもいけんのです。そしてそれが教団に入って広める事になった時にです。金光教と言う信心が愈々偉大な信心、所謂世界の名教として名実共に栄えて行く時だと思うのです。だからそういう意味合いでの合楽の方達はです。一つの使命と言うものを思わにゃいかん。言うなら使命感を持たなければいかん。どうでも和賀心を頂こう、愈々賀びの心を頂こう、ためには愈々改まって。
本気で研く事に専念しなければ、と言う事になるのです。今日は天地書き付けの説明ではなくて、ただ和賀心と言うその賀の心に絞って聞いて頂いた。そしてそれがです本当は今日皆さんに聞いて頂いたそれがです、天地書付けの内容になって、ただ唱え言葉でただおがむ対象にしとりますと言うだけではつまらん。発展をただ見ているだけではつまらん。それが自分のものになったときに初めて、言うならばおかげが頂ける時だと言うことでございます。
どうぞ。